武闘指導について懐疑的な小生からすれば、その通りとしか回答しようがない 当時なら踏み絵で打ち首死刑だった文化をキリスト教でもないのに隠れキリシタンの行為をなぜか小学校のときに洗脳教育されたわけだ。 その時ゴルフを覚え、帰国後、貿易商を営んでいたところ、霞ケ関の地主からゴルフ場建設を依頼されて 頭を強打するということは、命の危険がありますからその点をお聞きしたい 武道よりも茶道の方がふさわしいと思うのですが、 平凡なサラリーマンですが、自分に自信をつけるため武道を始めたく思っています。中年の素人がのこのこと加わっても、他の皆の迷惑だろうという気が強くありますが、しかし思い立った今始めたいです。近くのカルチャーセンターでは週1の ちょっとみっともない様に思えたので、、 大外刈り禁止(ようするに投げ技禁止)で対人では座って行うなど、柔道舐めてます。 日々の練習に際しては体の変更より始め逐次強度を高め身体に無理を生ぜしめざるを要す然る時は如何なる老人と雖も身体に故障を生ずる事なく愉快に練習を続け鍛錬の目的を達する事を得べし(合気道練習上之心得)(出典: 日本武道館 武道授業関連情報>連載名:武道授業実践の概要紹介(2011年2月号~), 『植芝盛平と合気道2』66頁「相手の欲するところを与えなさいと盛平先生はいっています。」砂泊かん秀インタビュー, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=合気道&oldid=79648951, 主に手刀(しゅとう)を用いた接触点を通して、相手に呼吸を合わせて接触点が離れぬよう保ちつつ、「円の動き・らせんの動き」など「, また相手の側背面などの死角から相手に正対し、かつ自分の正中線上(正面)に相手を捕捉することにより、最小の力で相手の重心(中心軸)・体勢を容易にコントロールし導き崩す。, 体勢の崩れた相手に対し投げ技や固め技を掛ける。崩しを行わずに技を掛けようとしても技は容易に掛からない(「崩しは厳しく、投げはやさしく」などと言い、崩しを重視する)。, (座技) + 片手取り  + 四方投げ = 片手取り四方投げ, 「剣取り」(剣による攻撃を素手で捌く、または剣を取りに来た相手に投げ技などをかける)と, 「杖取り」(杖による攻撃を素手で捌く、または杖を取りに来た相手に投げ技などをかける)と, 試合がないので、勝つための過剰に激しい稽古をする必要が無く、年齢体力にかかわらず無理なく自然に心身・足腰の鍛練ができる。, 合気道の稽古は、技を左右同じ動きで同回数繰り返すため、左右の身体の歪みを取る効果がある。, 合気道創始者・植芝盛平の興した合気道界の最大会派。合気道人口の8割を占めると言われる。, 盛平の高弟・望月稔が設立。合気道に柔道や空手などの要素を取り入れた。(※その後養正館は合気道から独立した新武道「養正館武道」を標榜。, 盛平の高弟・(財)合気会の師範部長であった藤平光一が設立。「氣」を重視する。毎年「全日本心身統一合氣道競技大会」(体技競技審査会)という形審査形式の試合を行っている。, 塩田剛三の高弟・櫻井文夫が設立。他流派からの参加も受け入れた打撃ありの組み手試合を行っている点が特徴。, 「牽制」とは言っても、相手の急所を狙って打つものであり、本質的には武術としての厳しさを表すものでもある。. よろしくお願いします。 霞ケ関CCの創始者にもなり、東コースを設計した。 SPONSORED LINK 「レジリエンス」という言葉を、最近初めて耳にして何 ... Copyright©  「武道」が「武士の嗜み」から派生したものであることは誰でも知るところですが、それはアメリカが抱える「銃社会」の構造と似てもいます。「自分の身は自分で守れ」と「銃器には責任がない、悪いのは使う人間だ」との理屈にもならない理屈で武器使用の正当化を主張し続ける。    還暦過ぎて、「誰とでも話すことが出来るのだね!」ということです。  しかし、相手の技のかけにくいスタンスは分かるのです。 あります。 吉祥丸・守央の著作からも、武徳会合気道部への統合には相当の抵抗感があったことが記されており[83]、「合気道」の呼称が実際に皇武館側に受け入れられていたかどうかについても前記の通り証言に食い違いがある。, 昭和20年(1945年)終戦により武道統制は消滅、翌年GHQ(連合軍総司令部)の命令により大日本武徳会は解散する。平井は大日本武徳会合気道を受け継ぐとして「光輪洞合気道」を興すが、盛平の武道とは別系統の、平井独自の武道であるとしている[84]。, 盛平が正式に「合気道」の名称を用い出した時期として確実なのは、昭和23年(1948年)2月9日、財団法人合気会の文部省による認可の時点である。合気会認可直前は「武産合気(たけむすあいき)」と称していたとする証言がある[85]。, 「合気道」を名乗った経緯について、盛平は生前ラジオのインタビューの中で、文部省の「中村光太郎」という人物に勧められたからであると語っている。[86]当時のGHQの武道禁止政策[11]への対応としても、武術的な勇ましさを主張しない「合気道」という名称は好都合であった[87]。, A:現代における武道の価値というものを考えましたときに、現代に生きている一般の人が行えて何かしら生活に結びつく点がなければ、その意味はないに等しいのではないのではないでしょうか。この現代にあって、誰かと武術で勝負をし、その勝敗にこだわることにどれほどの意味があるのでしょう。 詳しくは下のサイトをご覧ください。 お手数お掛けしました。, 「護身としても優れているし、武道なんだから礼儀作法も変わらない、初心者の技は間接・入身技中心だから頭を強打することもない」。このような短絡的な見解が最も危険です。 それは礼儀作法を学びたいと思い、茶道なら作法なども入っているしと思い興味がわきました。  私や妻が、本当であればしっかり教えなければならないものですが、しっかりとした作法となると知識がないため、自信がありません。学校の勉強も大切ですが、それ以上に学校などで、集団生活をする上で礼儀は大事なものと考えます。 取り方から教えなくてはいけないと思うのです。 ですね。   言動に不安は、少ないのです。「一撃は避けられる。」 他流の剣術や杖術の形を合気道の理合で解釈して修練する師範(西尾昭二、針すなおなど)とに分かれる。, 合気道の武器術として最も有名なものは、斉藤守弘が盛平の武器技を整理した「合気剣」と「合気杖」である。, 試合を行わない合気道では、各自の技量の向上と世間一般への普及を目的として、演武会が開催される。師範・高段者はもとより、初級者・児童に至るまで、各地の合気道家が一堂に会し日頃の稽古の成果を披露するのである。同じ技であっても激しく叩きつけるように行う者、静かに淡々と行う者など、様々な個性が現れる。このように上下を問わず大勢の演武者が参加する形式の演武会は、戦後二代目道主・吉祥丸(当時本部道場長)の発案により始まったものである。, 1950年(昭和25年)9月末から10月初めにかけて、東京日本橋の百貨店・髙島屋東京店にて合気道初の一般公開演武会が5回に渡り開催された。これは百貨店屋上階の特設ステージ上で、不特定の一般観衆に向かい、盛平を始め師範クラスの高弟から入門間もない初心者までが技を披露するという、その当時武道界全体で見ても例のない試みであった。また戦前・戦中を通じて厳しく公開を制限され、一般大衆にとって未だ神秘のベールに包まれていた合気道を、より身近な、誰もが始めることが可能な「開かれた武道」として普及をアピールするために絶好の画期的イベントであった。, この演武会は連日多くの観客を集め、またマスコミにも取り上げられるなど成功を収め、合気道が世の中に普及する大きな転換点となり、これ以降、各会派が定期的に演武会を開催することになった。中でも合気会が日本武道館で毎年行う「全日本合気道演武大会」[44]は国内外最大規模の演武会である[45]。また他武道でも同形式の演武会が開かれるようになった[46]。, 大東流と合気道には、武道の目的と意味をどう位置づけるかという思想性に鮮明な相違が認められる。盛平の合気道は古来の武術と一線を画して、「万有愛護」や「宇宙との和合」を目指す、といった理念的傾向が強い。これは、大本の合気武道時代からのものと考えられる。大東流では多く伝わる逆関節技や、足による踏み技・固め技など、荒々しい技の殆どが合気道で省かれているのも、この思想性によると考えられる。[47], 1930年(昭和5年)10月、竹下勇の紹介で講道館柔道創始者・嘉納治五郎が講道館幹部二人と共に盛平の道場を訪れた。この頃嘉納は、競技スポーツ化した柔道が勝敗に囚われる余り精神性を軽んずる弊に陥り、「武道の競技化・体育化による人格教育の実現」という嘉納の理想が形骸化しつつある傾向に危機感を抱いていた。その反省から私的に「古武道研究会」を主宰し、古武道諸流派の保存と伝承に務め、それを以って武道教育に精神性の復活を図ろうとしていた[48]。そのような経緯の元、初めて盛平の技を見た嘉納は「これこそ私が理想としていた武道、本当の柔道だ」と賞賛した。[49]盛平の技に魅了された嘉納は講道館から当時若手の有望株であった望月稔を派遣し合気道の修行に当たらせた。盛平の有力な弟子であった富木謙治、塩田剛三らも、盛平に入門する前は柔道の有段者であった。特に、富木や望月は盛平の高弟となってからも柔道家としての活動もおこなっており、その理念には合気道・柔道双方の影響がみられる。, 盛平は剣術の研究のために、戦前自らの道場「皇武館」で剣道の指導を行わせた。実際の指導は、親交のあった中山博道(神道無念流)の3人の高弟で「有信館の三羽烏」と呼ばれた中倉清(当時は盛平の婿養子)、羽賀準一、中島五郎蔵が行った。, 空手の経験者で盛平に師事した人物も少なくなく、戦前に入門した弟子としては望月稔、小西康裕が、戦後の門弟では有川定輝、千葉和雄、西尾昭二が知られている。いずれも空手の捌きに合気道の円転の理を応用したり、逆に空手の打撃を参考に合気道の当身と捌きの関係を研究し、より実戦的な技法を模索した。, 合気道は健康法としても人気がある。攻撃してくる相手の力を利用するので(空手や柔道のようには)強い筋力を必要とせず老若男女を問わず誰でもはじめることができ、和合の精神を重視し、また活動は〔組み手稽古〕(試合形式ではなく、二人一組で行う稽古)が中心であることから、健康法としても人気が高く、広く定着しているのである。, 合気会系の多くの道場で、稽古の始まりに盛平の考案による準備運動を行うのが慣例となっている。身体各部の柔軟などと共に、古神道の禊の行法「天の鳥船」(「舟漕ぎ運動」)「振魂」(「振りたま」)[50]が採り入れられ、また「西式健康法」や「真向法」も取り入れられている。, 合気道は「非力な女性の護身術として最適」と喧伝されている[51]。ただし、護身術としての有効性については、疑問を呈する人もいる。, これらの疑念について、合気会は「日々の鍛錬をきちんとやれば基礎を何度も修練している内に体得できる。実際に使えるようになる」という見解を示している[52]。, 21世紀初めの時点で「合気道」と言えば、一般的には植芝盛平の興した合気道を指すが、実は「合気道」の名を用いたのは盛平が最初ではなく、「合気道」という名称には“合気系武道(・武術)”全般を通称的に指し示す普通名詞としての一面もある(→例)。, 盛平は自らの武道の名称を「大東流」に始まり「植芝流」「相生流」「合気武術」「大日本旭流柔術」「皇武道」など目まぐるしく変え続けたが、ようやく1936年(昭和11年)頃から「合気武道」で定着しだした。, 盛平は自他共に認める「忠君愛国の士」ではあったが、大東亜戦争の開戦・継続には批判的であった。しかし「愛」と「和合」を旨とする自らの武道を、その精神を封殺しただの戦闘技術としてのみ軍に供せねばならない矛盾に耐えつつ、憲兵学校武術師範等の職務を篤実に務め続けた[78]。, 昭和17年(1942年)、戦時政策により武道界も政府の外郭団体・大日本武徳会の統制化に入ることになる。盛平率いる皇武会もその例外ではなかった。一代で育て上げた自らの武道に強い誇りを持っていた盛平にとって、この統合は不本意なものであった。, 統合にあたり、盛平は武徳会から「総合武術部門」設立についての協力要請を受けたが、これに対し皇武館道場の「総務」として渉外を担当していた門人平井稔を推薦し、同時に自らは老齢や病を表向きの理由に各団体顧問・軍での武術指導など一切の公職を辞し、東京の皇武館道場を息子吉祥丸に任せ、妻と共にかねて土地を買い集めていた茨城県岩間町に隠遁する[10]。平井は盛平の委任を受け、大日本武徳会の幹事に就任した。, この時武徳会に設置された「合気道部」と、“総合武術”(体術・剣術などを総合的に扱う武術)として制定された「大日本武徳会合気道」が固有武道名称として初めて確認できる「合気道」である。 >日本の伝統文化を学び、礼儀作法を身に着けるのなら、 調べたところ近所には、合気道、少林寺拳法、空手(糸東流)の道場が どうするのがよいか知りたいのです。 食べた後のシジミの殻はどこにおくのが よろしくお願いします。, あなたを助けてくれる人がここにいる 将来、自分の身・自分の大切なものは自分で守れる程度の強さを身につけ、 (聞き手)改めて伺いますが、先生が言われている“呼吸力”とは一体どういうものなのでしょうか? 教育目的を叶えることが目的なのであって、その目的を他の教科が担えるならば、体育で必修化する必要性はない・・という話である これにより盛平は初代合気道「道主」となり、没後は特に「開祖」と呼ばれる。しかし戦後の混乱、GHQ(連合軍総司令部)の武道禁止政策[11]などにより合気道の復興は困難を極めた。, 1954年(昭和29年)日本総合武道大会(長寿会主催)で盛平の弟子・塩田剛三が優勝し、財界人の援助を得て「合気道養神館道場」を創設し合気道の普及に名乗りを上げる。これに大きな刺激を受け、合気会も本格的な活動を開始する。戦後合気道は、盛平三男で合気会本部道場長・植芝吉祥丸の方針転換により、演武会の開催や技術書の出版などを通し一般に公開される。合気会は盛平を合気道の象徴として前面に押し出す一方、吉祥丸本部道場長、藤平光一師範部長らを実務の中心に据え合気道の普及を図って行く[12]。, 1950年代から盛平の弟子たちが積極的に海外普及に努めた結果、東南アジア・北南米・欧州など国際的に広まり、1961年(昭和36年)盛平自身もハワイに渡り各地で演武を披露した。2005年(平成17年)時点で合気会だけで85ヶ国に支部道場を開設している[5]。, 1969年(昭和44年)盛平死去、吉祥丸が二代目道主となる。その後砂泊諴秀、藤平光一、富木謙治といった高弟の独立が相次ぐが、大学の部活・カルチャーセンターを通しての普及に力を入れていた合気会は着実に会員を増やした。1976年(昭和51年)には合気会傘下の全日本合気道連盟及び国際合気道連盟(IAF)[13]が結成され、IAFは1984年(昭和59年)に国際競技団体総連合(GAISF)の正式会員となり、1989年(平成元年)以降ワールドゲームズ大会に毎回参加している。, 1999年(平成11年)合気道の国際的な隆盛を築いた吉祥丸死去。吉祥丸の次男植芝守央が三代目道主となる。合気会の会員は合気道人口の大半を占め、日本国内100万人・全世界で160万人とも言われ、合気道界の多数派・主流派を形成している[4]。, 一方盛平の門下及び合気会から独立した複数の団体・会派が存在する。(→“主な会派”)全国・海外にも支部を持つ会派から、それらに属さず特定の地域で独自に活動する団体まで大小様々である。, 2012年(平成24年)4月から日本の中学校で実施された武道必修化に伴い、幾つかの地域で保健体育の授業に導入されている[14]。, 「精神的な境地が技に現れる」と精神性が重視される。これは神道・大本教との関係など[17]、精神世界への志向性が強かった盛平自身の性格の反映といえる。 体力つくりと礼儀作法が目的です。, タイには、いろんな礼儀作法とかがあるようなのですが、  どなたか、詳しい方教えてください。, 日本の食事の時の頂きます文化がいつから発祥なのか分からなかった。 しかし、柔道技に対してそのような決め事があるのでしょうか。 ◎他の、スポーツでも、良いと思いますが、柔道剣道は、地域の高齢者にも ということについてまとめてみたいと思います。剣道を始める時に習ったはずなのですが・・・これでは指導する立場として駄目ですね。小学生からやり直しですよ。. (中略)それから戦後、飯倉の道場で私なりのいき方でやっている時、警察の内務官であった富田健治さんが『平井先生、どうだねもう一度こちらの植芝のほうをお考えくださいませんか』と、わざわざ道場へ見えました。私は私の信ずる道で、志を立てたのでお断りいたしますというようにいったわけです。, 「合気」という名は、昔からあるが、「合」は「愛」に通じるので、私は自分の会得した独特の道を「合気道」とよぶことにした。したがって、従来の武芸者が口にする合気と私の言う合気とはその内容が根本的に異るのである。, また盛平は「魄(肉体)は魂(精神)の生き宮であり、魄の修行を土台にして魂を成長させ、最終的に魂が表、魄が裏にならなくてはならない」と語り、肉体鍛錬と精神修養のどちらかに偏らないよう戒めた。. 蹴りや投げをされたときに、どれだけ離れていれば、一撃は避けられると分かるので、 考えています。ゆくゆくは一緒に稽古したいとも考えています。 このように創始者個人の思想や生い立ちが個々の修行者に及ぼすカリスマ的な影響力は、他武道に比して強い。その背景には、小兵でありながら老齢に達しても無類の強さを発揮するなど、盛平に関しての超人的なエピソードが幾つも伝わっており(→植芝盛平・エピソード)、それが多くの合気道家に事実として信じられ、伝説的な武術の“達人”として半ば神格化されていることも大きな理由の一つである。, 武術をベースにしながらも、理念としては、武力によって勝ち負けを争うことを否定し、合気道の技を通して敵との対立を解消し、自然宇宙との「和合」「万有愛護」を実現するような境地に至ることを理想としている[18]。主流会派である合気会が試合に否定的であるのもこの理念による。「和の武道」「争わない武道」「愛の武道」などとも形容され、欧米では「動く禅」とも評される。, 近代以降、武道の多くが「剣道(剣)」「柔道(投・極)」「空手(打)」と技術的に特化していったのに対し、合気道では投・極・打(当身)・剣・杖・座技を修し、攻撃の形態を問わず自在に対応し、たとえ多数の敵に対した場合でも、技が自然に次々と湧き出る段階まで達することを求める。この境地を盛平は「武産合気」(無限なる技を産み出す合気[19])と表現し、自分と相手との和合、自分と宇宙との和合により可能になるとしている。[20], 武術とは一見相反する「愛」や「和合」という概念を中心理念として明確に打ち出した合気道の独自性は、第二次世界大戦後・東西冷戦や南北対立下で平和を渇望する世界各国民に、実戦的な護身武術としてと同時に、求道的な平和哲学として広く受け容れられた。またこのような精神性は、盛平の神秘的な言動や晩年の羽織袴に白髯という仙人を思わせる風貌と相まって、盛平のカリスマ性を高める要因ともなった。, 盛平の弟子の中には藤平光一を初めとして、多田宏、佐々木の将人のように、ヨガを日本に持ち込んだ中村天風の影響を受けた合気道師範も多く、合気道の精神性重視という気風を次代に継承している。, 技は体術・武器術(剣・杖)を含み、対多人数の場合も想定した総合武術である。ただし実際には武器術を指導する師範の割合は多くなく、体術のみを指導する稽古が大半である[21]。, 無駄な力を使わず効率良く相手を制する合気道独特の力の使い方や感覚を「呼吸力」「合気」などと表現し、これを会得することにより、また同時に“合理的な”体の運用・体捌きを用いて“相手の力と争わず”に相手の攻撃を無力化し、年齢や性別・体格体力に関係なく[22]相手を制することが可能になるとしている。, 二人一組の約束組手形式(何の技を使うか合意の元に行う)の稽古が中心であり、「取り(捕り)」(相手の攻撃を捌いて技を掛ける側)と「受け」(相手に攻撃を仕掛けて技を受ける側)の役を互いに交代しながら繰り返し行う。, 一般的な合気会の道場では、まず指導者が取り・その補助者が受けとなり課題である技の形を示演し、これにならって稽古生各々二人一組となり技を掛け合う。取り・受けは平等に同数回交代しながら行う。片方が10回投げればもう片方も10回投げる。技は右左と「表」(入身で相手の死角に踏み込む)「裏」(転換で相手の背後に回りこむ)をやはり同数回行う。, 柔道のような乱取り稽古は通常は行われない[28]。基本的に相手の手首・肘・肩関節を制する幾つかの形から始まり、稽古を重ねる中で多様な応用技・変化技(投げ技・固め技など)を学んで行く。立ち技と正座で行う座り技が中心で、寝技は殆ど行われない。打撃(「当身」)は牽制程度に用いることが多く、打撃中心の稽古は行われない[29]。蹴り技・脚を使った絞め技などは基本的には行わない[30]。, この他に、一人の取りに複数の受けが掛かって行く「多人数掛け」[31]や、剣・杖・短刀取りなど武器術・対武器術(→「合気道の武器術」)の稽古も行われる。, (その他の主な技:二教、三教、四教、五教、天地投げ、回転投げ、呼吸投げ、腰投げ、隅落し、合気投げ等。以上の技は最大公約数的なものであり、流派や道場によって細部は異なる。同じ技が別の名で呼ばれること、別の技が同じ名で呼ばれることも少なくない。), 合気会系の道場では、稽古は体の転換から始まり、座技呼吸法を行って終わることが多い。これは怪我を防ぐために体の変更で身体をほぐし、徐々に激しい投げ技を行うよう盛平が制定したからである[34]。, 合気道の技は相手の攻撃に対して投げ技・もしくは固め技にて応じるのが基本である。技の呼び方は「技開始時の“受け”・“取り”の位置的関係」、「技開始時の“受け”の攻撃形態」、および「上記の固有技名」を組み合わせる。, 例えば、「受け」、「取り」共に立った状態を「立ち技」、座った状態を「座り技(座技)」、そして「受け」のみ立った状態を「半身半立ち」という。稽古は基本的に立技を行うため、これらは省略されることもある。また、「受け」が右手で「取り」の左手首を掴んだ状態を「片手(首)取り」または「逆半身片手(首)取り」という。「受け」が手刀を正面から振り下ろす攻撃形態を「正面打ち」、斜め横から振り下ろすのを「横面打ち」といい、それぞれの状態から上記いずれの技も派生し得る。また、短刀などの武器を用いる場合は「突き」や「短刀取り」などもある。, 「合気」と「呼吸力」は合気道技法の原理であると同時に、合気道の重要な理念とされる概念。, 日本における武術用語としての「合気」は、江戸~明治・大正期の剣術書などに認められる。それらは彼我の技量や気迫などが拮抗し膠着状況に陥る、または先手を取られ相手の術中に嵌るといった、武術的には忌避すべき状態を差す言葉であった[35]。しかし明治以降、「合気之術」など積極的な意味の使用例が現れる。この頃の「合気」には「読心術や気合の掛け声をもって相手の先を取る」といった意味付けがなされていた。大正期には各種武術書に同様の意味合いで「合気」の使用が見られ、「合気」が武術愛好家の間で静かなブームになっていたという。[36], 大東流合気柔術では、相手の力に力で対抗せず、相手の“気”(攻撃の意志、タイミング、力のベクトルなどを含む)に自らの「“気”を合わせ」相手の攻撃を無力化させるような技法群やその原理を指す。 剣道ではなぜガッツポーズを厳しく禁止しているのでしょうか。理由は主に2つあります。先述のとおり、剣道は礼に始まって礼に終わる武道です。ガッツポーズは相手への敬意を忘れた無礼な行為とみなされ、「礼儀」の面での反則行為になってしまいます。 そして急所突きはやった者に対してペナルティーが課せられるのが常です。   他に那須GC、習志野CC、千葉CC野田コース、静岡CCなどを設計した。 関節技を間接にミス変換してましたね。 どう思いますか。, 現代の礼儀作法と古来の礼儀作法。どちらに従うのが正しい礼儀作法と言えるのでしょうか? なお大東流は初め「大東流柔術」と称していた。この名称に「合気」の文字が加わったことが確認できるのは、1922年(大正11年)、武田惣角が盛平に授与した目録[37]が初めてである。 海外生活や、旅行で危機もありましたが、すべて回避できました。 礼儀作法というのは人間として、平和な社会生活をする上でとっても大切だということはあなたも理解していると思います。剣道は人間形成の道。剣道を通じて学んだことを社会生活に活かさなければ意味がありません。, 特に剣道というのは棒を持って叩き合うという非常に危険な行為を行う競技ですよね。ですから、闘争本能に支配されない為にも礼節というものがとても大切になります。剣道は礼に始まり礼に終わるというのは、自分自身をしっかり持ち、常に冷静でいなさいという戒めだったのです。, 私も、稽古中に何度も何度も防具の無い場所を打たれると冷静でいられなくなる場合があります。まだまだ修行が足りませんね。そんな時でも、相手に対して感謝する心を忘れないように、常に冷静に判断できるようになりたいと思います。, 礼というのは剣道だけではなく、古き良き日本人の「思いやりの心」ではないでしょうか。ですから、剣道をする上でも、相手に対して思いやりの心で接し、お互いに切磋琢磨していくことが大切なのでしょう。, 例えば、試合や稽古の時、9歩の間合いで礼をします。勝っても負けても相手への感謝の気持ちをその礼に込めたいものですね。. 剣道では竹刀を使うが、日常生活で棒を持って歩くのか。むしろ持って歩っているほうが危険者だと思う。  本当に困ったことは、忘れました。つまり、諦めがつくのです。 礼儀作法を習わせるなら柔道でなくても、茶道や日本舞踊でも良いわけで、 それには、まず神の心を己の心とすることだ。それは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみにまでにおよぶ、偉大なる「愛」である。「愛は争わない。」「愛には敵がない。」何ものかを敵とし、何ものかと争う心は、すでに神の心ではないのだ。これと一致しない人間は、宇宙と調和できない。宇宙と調和できない人間の武は、破壊の武であって、真の武産(たけむす:神道の真理の言葉)ではない。, (聞き手:大東流合気柔術と“合気”を加えたのは出口先生の提案ですか、大東流のほうで付けたのですか。), 私は小さかったですからはっきりしたことはいえません。文献からいえば大正十一年の前半期までは『大東流柔術』で、惣角先生が来てしばらく経って大正十一年の暮れ、後半期から『大東流合気柔術』になりました。父は出口さんに合気じゃといわれ、また惣角先生にも話をもっていったらよかろうといわれたのです。, なお『合気道教室』11頁 は「植芝(盛平)が武田に改称を提言した説」を「植芝が大東流においても『合気』なる語を付与した創案者であることを示唆」するものであるとし、「生前の植芝(盛平)がそのこと(惣角への提言)を明言していないことや、当時の師弟間の厳しい関係を考えれば、成り立ちがたい説」と断じる一方、「出口や、大本に出入りし武田から指導を受けた軍人たちが(中略)『合気之術』の静かなるブームを背景に(中略)門人たちの誰かが『合気之術』の達人として武田を理解し、その技法の流名に『合気』の語を加えることを進言したことも推察」できるとしている。しかしその「門人たち」が「当時の師弟間の厳しい関係」を如何に乗り越えたかについては、特に考察がない。 枕草子曰く、タメの集まりに目上の人が話しに加わった場合、タメ口を続けるのが礼儀作法だと言っています。