戦国の大名・武将285名を一挙紹介。生年月日順や生涯年齢順など並び替え自由。(近く実装). 今回は中世や戦国武将の名前の多さについてです。「吉法師」や「梵天丸」などの幼名。「日向守」や「上総介」などの受領名。「右府」や「弾正忠」などの官途名。「信玄」や「謙信」などの法名。そして本名でなぜ呼ばないのか。諱(いみな)とは何なのか・・・。 285 件中 1 - 20 件目. 幼名は徳寿丸。通称は次郎。おもな官位は常陸介。あだ名は鬼義重、坂東太郎。佐竹氏第18代当主。 ... わずか5歳の時に、父・尚綱が那須高資との戦いで敗死。広綱は宇都宮城を落ち延びて、家臣に養育され... 別名は三木自綱(みつぎよりつな)。通称は光頼、自頼。おもな官位は左京大夫・大和守・大納言(自称... 幼名は三郎四郎。通称は藤次郎。おもな官位は民部少輔。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 検索ボックスにお好みのキーワードを入れて下さい。当サイト内の記事を探せます。 周防国の在庁官人・大内氏の第16代当主 。 第15代当主・大内義興の嫡男。 母は正室の内藤弘矩の娘。 周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。 官位は従二位 兵部卿兼大宰大弐兼侍従。 尼子経久の孫にあたる。父が若くして亡く... 幼名は徳寿丸。別名は又四郎、筑前宰相。おもな官位は中務大輔・参議・権中納言。 ②従一位 諸(もろ)ともに 如露亦如電(にょろやくにょでん) 応作如是観(おうさにょぜかん)」と伝わる。, 義隆の実子の大内義尊も、9月2日に陶軍に捕らえられ殺害された。義隆・義尊の死により、周防大内氏は事実上滅亡した[注釈 2]。 戦国の大名・武将285名を一挙紹介。生年月日順や生涯年齢順など並び替え自由。(近く実装) 特に人気のある戦国大名・武将. 清洲会議での四宿老のひとり(ほか、柴田勝家、丹... 幼名は古新、照政。通称は三左衛門、岐阜侍従、吉田侍従、播磨宰相、姫路宰相。おもな官位は武蔵守・... 幼名は弥九郎。別名は如信。おもな官位は摂津守・内匠頭・従五位下。霊名はアウグスティヌス(アゴス... 通称は三郎。あだ名は尾張の虎、器用の仁。織田信長の父である。美濃の斎藤道三と激しい戦いを繰り広げた。. 「好きな歴史上の人物の官位が、全体的に見るとどの辺のエラさになるか?」 記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。ご要望の際は、お問い合わせよりご一報下さい。. ⑤正三位 『戦国・織豊期の武家と天皇』 池享 校倉書房 2003 (gb235-h13) 「武家官位叙任表」(pp.238-243) いずれも、「歴名土代」「公卿補任」「お湯殿の上の日記」などの各種史料で手続きが確認できる武家の任官を一覧表にまとめたものです。 ①正一位 ⑰従六位上 ・皇族は別格だけど世代に影響される, 官位相当制の表もウィキペディア先生や歴史手帳などに出ていますが、受験をお考えの方はそこまで覚える必要はないでしょう。, エンタメ目線で こちらは2ページ目になります。 1ページ目から読む場合は 【位階と官位】 をクリックお願いします。 例えば、戦国時代は皇室も公家もお財布事情が厳しかったので、多額の献金を行って位階や官職をもらう大名が多々いました。. 戦国の大名・武将285名を一挙紹介。生年月日順や生涯年齢順など並び替え自由。(近く実装) 特に人気のある戦国大名・武将. 1ページ目から読む場合は ⑧正四位下 清洲会議での四宿老のひとり(ほか、柴田勝家、丹... 幼名は古新、照政。通称は三左衛門、岐阜侍従、吉田侍従、播磨宰相、姫路宰相。おもな官位は武蔵守・... 幼名は弥九郎。別名は如信。おもな官位は摂津守・内匠頭・従五位下。霊名はアウグスティヌス(アゴス... 通称は三郎。あだ名は尾張の虎、器用の仁。織田信長の父である。美濃の斎藤道三と激しい戦いを繰り広げた。. ここだけだと信長が野心満々だったようにも見えますね。, さらに、親王任国の場合は親王自身が赴任することはなく、中央から介が派遣されていました。現地の最高責任者というわけです。, この辺を総合して考えると、「信長が上総介を名乗ったのは、次代の皇族の補佐を務めたいという意思表示」と解釈することもできるわけです。, まあ、信長が皇室をどう思っていたのかはまだ確定できていませんし、他の要素もたくさんあるので、断言はできないですけどね。, だいぶややこしくなりましたが、官位について無理やりまとめると以下のような感じでしょうか。, ・官位は「官職」と「位階」を合わせた呼び方である 幼名は徳寿丸。通称は次郎。おもな官位は常陸介。あだ名は鬼義重、坂東太郎。佐竹氏第18代当主。 ... 別名は三木自綱(みつぎよりつな)。通称は光頼、自頼。おもな官位は左京大夫・大和守・大納言(自称... 幼名は三郎四郎。通称は藤次郎。おもな官位は民部少輔。 みたいな視点で楽しむのが良さそうです。, 例えば、伏見稲荷大社は最高位である「正一位」です。ここから転じて、お稲荷様のことを正一位と呼ぶこともあります。夏目漱石の「草枕」の最初のほうにも「正一位 女に化けて 朧月」なんて句が出てきますね。, 「お稲荷様が正一位なら、伊勢神宮はどうなるんだ?」と思った方もおられるかもしれませんが、ここでもやはり「別格」というものが存在します。, 同様に、三種の神器の一つ・八咫鏡(やたのかがみ)のプロトタイプとされる鏡を祀った日前神宮(ひのくまじんぐう)と國懸神宮(くにかかすじんぐう)も、位階を超越した立場とされています。, 年始に初詣をされる方は、並んでいる間にその神社の位階をググる先生にお尋ねしてみるのも良いかと思います。 ㉘大初位下 これらを完全に網羅することははっきり言って数十年も研究している学者でさえも難しいことです。, まして普通にエンターテイメントとして見ているだけの人からしたら、誰が何なのかさっぱりわからないはずです。, そこで今回は、そうした戦国武将らが持っている官位について完全網羅・・・というのは冗談で、誰がどれだけ偉いのか、誰よりも上なのかということを少しでもざっとわかることができるようにお話ししましょう。, まず、日本の官位は何が面倒くさいかというと基本的には全て訓読みなので読んでいても歯切れが悪い。, 日本の官位では、基本的に正一位、従一位というような「官位」があり、それに相当する「役職」が割り当てられます。, しかし、正一位の場合はどの殆どが既に高位高官を得て死んだ者が死後に追贈されて就くので、生前に就任可能なものは事実上その次の従一位だと考えていいでしょう。, という調子で従八位下まで続き、大初位上、大初位下、少初位上、少初位下となり、以上で位階が終わります。, ○○守、いわゆる地方の領主になるのは従五位下(じゅごいのげ)、下級の国司だと正六位上(しょうろくいのげ)からスタートします。, これは古代中国から続く官職制度の流れを大宝律令の時に真似て、それがそのまま明治維新になるまで基本方針として継続していった結果でもあります。, 但し、日本特有の役職名もあり左馬助(さまのすけ)などは中国では見られない名前です。, ちなみに、こうした役職名にはだいたいの場合唐名(からな)という中国での呼び方を通称で呼びます。, 関ヶ原の戦いで家康はベストタイミングで寝返りをやらかした小早川秀秋に対して「金吾よ、でかしたぞ!」と言ったと伝わります、この金吾とは中国の「執金吾(しつきんご)」という官職に由来します。, 当時の小早川秀秋は左衛門督(さえもんのとく)という役職に就いており、元の名前が秀俊だったことから金吾秀俊という通称がありました。, どちらも皇室の警備に連なる役職で、日本では衛門府(えもんふ)と呼ばれる役職の中の一つでした。, 日本でもその傾向は強いようで、例えば家族以外の者が「おい、真田信繁」などと呼ぼうものなら斬られても文句は言えません。, 例えば明智光秀なら「明智日向守(あけちひゅうがのかみ)」、その娘婿である明智秀満なら「明智左馬助(あけちさまのすけ)」など、少々長かろうとも役職で呼ぶことで誰なのかをはっきりさせるという意味もあったようです。, 安房とは千葉県の一部の地域の事なので、現代で言うと、真田市長といった感じでしょうか?, そういう場合は由来のある地名を冠することが多く、例えば豊臣秀頼の母・茶々は淀城に住んでいたことがあるから淀殿という風に呼んでいました。, 最後に、朝廷内では現在名乗っている姓名の他に源・平・橘・藤原のように天皇家に連なる姓などを名乗って官位表に載せられます。, そして真田信繁は秀吉から朝廷用に豊臣姓を頂いていたので豊臣信繁と名が載っています。, 真田、伊達、毛利といった姓はその昔あまりにも藤原、源、平が増えすぎために「お前らややこしいから今後は自分の土地の名前を名乗りなさい!」と朝廷が命令したことが始まりみたいです。, だいぶ当初の話とはずれましたが、お次は『真田丸』から真田親子の官位・役職に就いて見ていきましょう。, それから時期は不明ですが少なくとも秀吉が生きている頃に従四位下・侍従に昇進し、伊豆守を兼任します。, そして父・昌幸は時期はよくわかりませんがおそらく秀吉時代、従五位下・安房守(あわのかみ)に任じられています。, パッと見では昌幸が信幸よりも格下じゃないかとの感想を抱きますが、それよりも昌幸・信幸が『守』、つまり領主であるとされているのに対し、信繁は中央官ではありますがこれでは領地がありません。, (ここでいう領地がある、ないというのはあくまでも官位表、つまり理念上の話だと思ってください。実際は明智光秀みたいに日向守でも日向(宮崎県)に行ったことがない人がいるように名前だけの場合がなんとも多いです)。, 同じ時期に官位を授かった家康の次男・結城秀康は三河守(みかわのかみ)と同時に様々な役職にも就いています。, つまり、信幸は家康の息子と似たような待遇である義理の婿、同じ従五位下でも守の役職がない信繁とはまるで重みが違うのです。, ある学者はこうした対比から信繁は領地をもらってない分、昌幸の後継者としての地位を確立したのでは?との意見を主張していますが、要するに信幸が昌幸の手を離れて別家として成り立っていたということを考える必要があるということではないでしょうか?, なんだかんだ言って、関ヶ原の戦いは日本全国の大名が総動員で活躍した随一の戦乱です。, 先述した通り従一位が事実上のナンバー1である以上、正二位というのは事実上ナンバー2です。, 当時の従一位は柳原淳光という公家の人物、秀頼は家康の後任の内大臣、つまりこの時点では確実に格下です。, 次に西軍の大将は毛利輝元ですが、先述の通り従三位・権中納言であるため、官位としては武家ナンバー2です(豊臣家は関白など、公家路線に走っていたためここでは考えない)。, これら大大名を決起に導くきっかけとなった石田三成ですが、彼の官位・役職は従五位下・治部少輔(じぶしょうほ)に過ぎません。, 真田信繁と同じく名目上は領地無し、秀吉からもらった近江佐和山はちょっと言い過ぎかもしれませんがある意味では秀吉個人の裁量で与えた領地、名目としては朝廷から頂いた土地ではないので感覚としては秀吉からの小遣いだとイメージしましょう(あくまでもイメージです)。, だいたい従五位下くらいが一般的に大名と呼ばれるクラスの人がもらっている官位なので、大谷吉継の研部少輔(ぎょうぶしょうゆう)、石田三成の治部少輔(じぶしょうゆう)、加藤清正の主計頭(かずえのかみ)、真田信繁の左衛門佐(さえもんのすけ)といった従五位下やその下くらいの役職の人は関ヶ原の戦いに参加していた人の中にゴロゴロいます。, しかし、西軍に付いて反乱を起こしたのが自分に次ぐ上杉景勝や毛利輝元、宇喜多秀家となれば話は別です。, 前田利長も最初は父の遺志を継いで反家康でしたから、家康にとっては五大老は全員敵だったのです。, あるいはそれらと縁故の大名が束になって寝返れば何が起こるか分かったものではありません。, 一方、三成は自分単独では諸大名を動かせるほどの力はないとわかっていたようで家康以外の五大老の力を利用しようとしたのはとても賢い選択でした。, そうした政治的側面を巧みに利用した三成は決してただの陰湿な頭でっかちではなく、相当に頭の切れる人でしょう。, 毛利の内通などが一切なく全てが三成の思うがままに動いていたら関ヶ原でも西軍が勝っていた可能性は十分にありましたが、家康と三成では発言の重さが違いすぎました。, 国一つ動かすとなると、どうしても運や局地的な戦術だけではどうにもならないというのがよくわかるのが関ヶ原の戦いです。, 家康は江戸幕府を開く際に秀頼の再起を阻止するために関白の位を朝廷に返上し、征夷大将軍を唯一無二の最高職に祭り上げてしまいました。, それは、こうした国の仕組みが世の中を学ぶ上でとても重要な意味を持っているからです。, ドラマでは何だか呪文のような官位ですが、名刺と同じで上下関係をはっきりさせ人物の立ち位置を認識するにはこの上ない材料なのです。.