カール・デリック・ローズ(Karl Derrick Rhodes, 1968年8月21日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州出身の元プロ野球選手(外野手)、プロ野球コーチ。登録名はタフィ・ローズ(Tuffy Rhodes)。, NPBでの通算本塁打数歴代13位[1]であり、NPBで400本塁打を記録した唯一の外国人選手でもある。シーズン本塁打数歴代2位タイ記録を保持[2]。, 母親がプレーしていたソフトボールに影響されて野球を始めたという。ケン・グリフィー・ジュニアとは幼馴染で、いつも一緒に野球をプレーし、家族ぐるみの付き合いでもあったという。, 1986年のドラフト3巡目でヒューストン・アストロズに入団。俊足の中堅手として、1A時代の1988年には年間65盗塁を記録している。1990年にメジャーリーグ初昇格を果たす。, 1994年の対ニューヨーク・メッツ戦で出場し、ドワイト・グッデンから第1打席より3打席連続本塁打を放ち、名が知れ渡る(開幕戦3本塁打は現在もメジャー記録)。しかし、メジャーに定着することはできなかった。, 1995年途中にカブスからウェーバー公示され、ボストン・レッドソックスへ移籍。移籍後も成績を残せず、シーズン終了後にFAとなった。, メジャー在籍時代、俊足の持ち主でもあるローズには先頭打者としての活躍が首脳陣から期待されていたが、ローズは長距離打者として出場したかったために首脳陣と折り合わず、その夢を実現するために日本に来ることを決意した。, 1995年10月19日、近鉄バファローズが獲得を発表。来日1年目の1996年は、シーズン3本のサヨナラ本塁打など日本野球に適応し、全試合出場、チーム三冠王となる。, 1997年8月にパシフィック・リーグ新記録(当時)となる4試合連続猛打賞や、来日初の3割を記録し、初のベストナイン、全試合に出場した。, 1998年は前年より調子を落とし、前年と同じ22本塁打を打ったものの打率.257だった。, 1999年、シーズン途中からチームが最下位に低迷する中で成績を伸ばし、40本塁打・101打点を記録して、初の本塁打王・打点王のタイトルを獲得[3]。, 2000年もチームは2年連続で最下位となり、自身も前年を下回る成績だったが3年ぶりに全試合に出場した。, 2001年は本塁打を量産し、9月5日の西武戦(西武ドーム)でパ・リーグの外国人で史上初となる50号を放ち(パ・リーグで50本塁打は1986年の落合博満以来15年ぶり、プロ野球の外国人では1985年のランディー・バース以来16年ぶりの快挙となった)、9月8日のダイエー戦(大阪ドーム)で51号と52号の2本塁打を放ち1963年の野村克也、1985年の落合博満の記録に並び、9月9日のダイエー戦(大阪ドーム)でパ・リーグの選手としては史上最多本塁打となる53号を放った。9月12日のロッテ戦(大阪ドーム)でランディー・バースに並ぶ54号を放ってから6試合は本塁打は出なかったが、9月24日の対西武戦(大阪ドーム)で松坂大輔から本塁打を放ち、王貞治以来の当時の日本タイ記録となるシーズン55本塁打を達成してパ・リーグ優勝に貢献、初のMVPにも選出された[4]。日本シリーズでも第2戦で決勝3ラン本塁打を放つなど活躍し、チームは日本一を逃したが打線の不調の中で気を吐き敢闘選手賞を受賞した。なお第4戦でも本塁打を放ったが、日本一を決められた第5戦ではチームは本塁打を打てなかったためローズは近鉄球団の日本シリーズでは最後に本塁打を放った打者となった。2002年には打点王を獲得。2003年は51本塁打を放ち、3度目の本塁打王獲得。また、3年連続ベストナインにも選出された。しかし、オフの契約更改ではローズは複数年契約を希望したものの球団は単年契約を提示し折り合いが付かず交渉は決裂した[5]。同年11月10日、退団が発表された[6]。, 2004年は落合博満に次ぐ史上2人目で、外国人では史上初の両リーグでの本塁打王獲得(リーグを跨いでの2年連続本塁打王も史上初)。なお外国人による4度目の本塁打王獲得は史上初である(2019年シーズン終了時点で史上最多)。この年の巨人はシーズン259本塁打の日本記録を打ち立てた。同年途中にFA権利を取得し、翌年から外国人枠の適用外(郭泰源に続き2人目、野手では初)となる。近鉄時代の左翼手・右翼手とは異なり、中堅手としての守備起用が主となる。2005年正月の報知新聞インタビュー上では「登録を狼主(ろうず)にしたい」「引退後は和室を作り、バットを飾りたい」と答えており、野球人生を巨人で終える考えを持っていた。, 2005年4月26日のヤクルト戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)で、9回表にアレックス・ラミレスが放った左中間への打球を追わなかったことをコーチの弘田澄男に「緩慢プレー」と指摘されると、激高して弘田に掴み掛かるなど激しい口論となった。試合も敗れて5連敗を喫し、試合後も怒りが収まらず、ドームから宿舎に向かう通路で報道陣からこの騒動について問われると、必死に宥める通訳を制して「どんどん(記事に)書いて」と前置きした上で「負けたのは俺のせいだと弘田(澄男)さんが言った。日本で10年間やってきたけど尊敬がない。投手があれだけ打たれるのも俺のせい? [23]、医師から制止されて来日が叶わず[19][22]、8月18日に選手登録が抹消されコーチ専任となった[24]。結局、2016年は来日できずに終わった[22]。オフには、富山側は2017年に改めて獲得を検討しているとも報じられたが[19]、コーチとしても選手としても契約を結ぶことはなかった。, NPBに在籍した13シーズンすべてで20本塁打以上をマーク。うち7シーズンで40本塁打以上を記録し、最終的には外国人枠適用経験選手として歴代最多となる通算464本塁打を放った。その一方、100試合以上出場したシーズンはすべて100三振以上を喫している。NPBで記録した通算1792安打・1269打点は、ともに外国人枠適用経験選手としては歴代2位の記録である[25]。また、田淵幸一・山﨑武司に次いで通算400本塁打を放ちながら通算2000安打に届かなかったNPB史上3人目の打者でもある。 タフィ・ローズ 富山grnサンダーバーズ 背番号16 外野手 8月月間成績 打率.479(48打数23安打) 本塁打3 打点19 【ローズ選手コメント】 「月間mvpの受賞を大変嬉しく思います。このような結果が残せたのもファンの皆様の熱い応援があったからです。 プロ野球の過去の試合結果、スコア、個人成績、チーム成績、タイトル等のデータ。 一軍出場の全選手約6000人の年度別成績もあります。 タフィ ローズ 砂川リチャードが登録名を変更!工藤監督と直電で語っていた!ステイホームの過ごし方は?, DKBは韓国発セルフプロデュース9人組アイドル!公式ファンクラブ開設で目が離せない!, 大和田獏の娘は誰?息子と誤解されがちな俳優との関係!嫁や兄との共演がウケていた!出身大学もスゴい, 仲村トオルの嫁やモデルデビューした娘とは?刑事ドラマだけじゃない演技力!身長や体重は?, 戸田恵梨香はムロツヨシとの結婚を勧められていた?笑顔の可愛さがアップ?佐川のCMが美人すぎ!, 広瀬香美はYouTuberとして大人気!天才と言われた子供時代や元旦那さんも紹介!, ミヤ蝶美・蝶子が師匠ミヤコ蝶々に破門された理由、再結成秘話とは!「「女芸人No.1決定戦 THE W」準決勝で惜しくも敗退, 藤井隆は多才だった!経歴やプロフィールを丸っとご紹介!夫婦の息もピッタリすぎる!?, ロングアイランドは野球部同級生芸人コンビ!松原の弟はプロ野球選手、松尾は俳優志望のナルシスト. 通知の解除方法については、こちらの記事をご覧ください。. ピッチャーも悪い。みんな悪い。ジャイアンツ下手くそ。ジャイアンツ大嫌い。東京に帰る」と日本語でまくし立てた[7]。この言動は物議を醸し、罰金を徴収された[8]。5月29日のオリックス戦で退場処分を受けて、金田正一の8回を抜いて最多退場(9回)となった。8月に右肩痛の治療で帰国[9]。結局この年は101試合の出場で打率.240・27本塁打・70打点と前年より成績を落としてしまい、来日以来初めて規定打席に到達しなかった。不本意な成績で終わったことから11月7日に戦力外通告を受け、この年限りで巨人を退団した。, 2006年は帰国してシンシナティ・レッズとマイナー契約を結ぶ。しかし、招待選手としてオープン戦では12試合で27打数6安打と奮わず、レッズから降格を通達された。3月21日に一時は現役引退を表明して、公式戦は1年間プレーしなかった。同年オフにオリックス・バファローズの球団関係者に電話で「日本で野球をやりたい。手術した右肩の状態も大丈夫だ」と日本球界への復帰を伝え、古巣合併先であるオリックスの入団テストを受けることが決まった。, 2007年の春季キャンプで入団テストを実施することが決定し、受験の為来日。当初は、体型が以前の87kgから100kgにまで増量していて明らかに身体が丸まっており関係者一同不安にさせたが、本人は「少し時間をくれ」と発言。テスト期間中に見事絞り上げ2月26日に合格。3月1日に入団が決定し、背番号は8に決まった[10][11]。入団決定時の記者会見の第一声は、日本語での「タダイマ」だった。オリックスでのローズの応援歌は、曲自体は近鉄時代と同じだったものの、歌詞は「再出発」という意味で変更された。, 4月4日のロッテ戦で、小野晋吾から4号本塁打を放って日本球界では歴代28人目、外国人選手では初となる通算1000打点の記録を達成[12]。5月10日の対ロッテ戦で1354試合目の出場となり、ロベルト・バルボンが持っていた外国人選手の最多出場記録を更新した。5月27日の巨人戦で上原浩治から決勝本塁打を放ち「全球団から本塁打」を達成。6月30日の対日本ハム戦では通算1500本安打を達成[13]。9月2日の対ロッテ戦では通算400本塁打を達成[14]。9月18日の対西武戦では42号本塁打を放ち、山崎武司に1本差を付けたものの左股関節を悪化させ、2004年以来の本塁打王獲得間近だった終盤で無念の帰国となった(本塁打王は43本塁打の山崎が獲得)。長打率.603は両リーグ通じてトップ、出塁率.403、四球数88個、三振数147個はパ・リーグ1位であるなど、記録ずくめのシーズンだった。, 2008年4月12日の楽天戦で、レロン・リー(通算1579本安打)が持つ外国人選手通算最多安打を抜き、通算安打数が1582本になり、外国人通算安打の新記録を達成。5月26日の対横浜戦では通算1500試合出場記録、10月1日のソフトバンク戦では杉内俊哉から40代での40号本塁打を達成し、自身3度目の打点王を獲得[15]。, 2009年4月26日の日本ハム戦で、榊原諒から史上12人目となる通算450本塁打を達成[16]。しかし、5月13日の対西武戦で星野智樹から死球を受け、右手第五中手骨折と診断されて離脱した。8月4日の対楽天戦で復帰し、岩隈久志から先制適時打を含む3安打猛打賞を記録。8月7日の対ロッテ戦で通算300二塁打を達成。しかし、前述の骨折による離脱の影響もあり、日本でプレーした年で最低の成績(84試合出場、91安打・22本塁打、最少となる62打点)で、規定打席数に到達しなかったのも2005年以来、2度目だった(ただし、打率自体は.308と2001年の.327に次ぐ成績)。, シーズン終了後の契約交渉が難航したため、12月2日に球団から発表された次年度契約保留選手名簿から名前が外され、自由契約選手として公示された。しかし、球団側は貴重な戦力として評価しており、今後も残留へ向けて交渉を続けるとしていたがローズ側から連絡が一切なかったため、2010年1月23日に交渉を打ち切り、そのまま退団した。契約交渉が難航した理由として、結果を残しても41歳と高齢で、3億5000万(推定)の高年俸がネックとなり、再契約のために球団が2億5000万を提示したことで、公傷(5月13日に星野智樹から受けた死球)を認めてほしいというローズとの折り合いが付かなかったためである。その後、どこの球団に所属することはなくこの年限りで2度目の現役引退。, 引退後はアメリカに帰国し、テキサス州ヒューストン郊外で父親と二人で暮らしながら、息子のバスケットボールチームのコーチをしていた[17]。, 2015年5月25日に、近鉄時代のチームメイトでもある吉岡雄二が監督を務める日本の独立リーグ・ベースボール・チャレンジ・リーグの富山GRNサンダーバーズからのオファーを機に現役復帰を決意し、野手コーチ兼任で入団[18]。このシーズンは41試合に出場し、打率.315、本塁打5の成績をあげる[19]。選手としての成績のみならず、その人気からグッズが売れ、富山の観客動員も既存のリーグ6球団[20]の中で唯一前年から増加するなど、営業面にも貢献した[21]。このため、球団側は2016年もチームに残留させる予定であったが[21]、オフにふくらはぎを痛めたことがきっかけで来日が遅れ[19][22]、開幕時点では出場選手登録に含まれていたものの 変化球への対応に秀でる[26]が、内角高めがウィークポイントである[26]。, 愛称の「タフィ」はタフ(tough)からきている。幼少時代、顔面に死球を受けて鼻血を出したにも関わらず翌日の試合に出場している姿を「母親が『タフだ』と言った」「監督が『タフな奴だ』と言ったから」の2説が流れていたが、1997年にパンチョ伊東が行ったインタビューで「7歳の時に、リトルリーグのコーチが『こんなタフな子供はいない』というんでタフィさ」とローズ本人が語っている[28]。母親の話は巨人入団後のプロフィールに記載されていたものである。, インタビューなどでの明るいトークと親しみやすい性格などで人気がある。ヒーローインタビューは、近鉄時代の途中からインタビュアーの言葉を理解したために通訳が不要で、「ローズが英語で話して通訳が和訳する」スタイルで行われていた。インタビューの内容によっては通訳を介さず、日本語で直接答えた。, 嫌いな食べ物はタコ。理由として「グニャグニャして、ゴムをかんでいるみたいだから」。その他、辛いものも苦手[29]。, 2001年9月24日に松坂大輔からシーズン55本目の本塁打を放ったが[30]、同月29日のロッテ戦[31]、30日のダイエー戦では勝負を避けられた[32][33]。その後のオリックス戦2試合でも本塁打は出ず、新記録はならなかった[33]。, 後にローズは当時ダイエーの監督が王貞治だったことについて「王さんに悪い感情はない。日本の野球は捕手とバッテリーコーチが決めるから。実はあの日、55号を記念して王さんにサインボールを3個もらった。そのボールは今も大切に飾っている」と語っている[31]。, 2016年に史上最高の得票率でアメリカ野球殿堂入りを果たしたケン・グリフィー・ジュニア(元シアトル・マリナーズ)とは幼馴染で、いつも一緒にプレーしていた。グリフィー家とローズ家は母親同士が古くからの友人で、家族ぐるみでの付き合いもあったという[34]。, 梨田昌孝には「養子にしたいくらい」と可愛がられていた。近鉄時代にヘッドコーチだった伊勢孝夫を「日本のお父さん」と慕い、ヘッドコーチからフロントへ転身した後もスランプに陥った際は指示を仰いでいた。, 清原和博と仲が良く「ジャイアンツ移籍時に、キヨさん(清原)がセ・リーグ投手の特徴を良くアドバイスしてくれた」「(オリックス入団時)キヨさんと野球が出来るのが楽しみ」というコメントを残している。清原が引退した2008年には、足の故障でクライマックスシリーズに出場しないことを明らかにした清原に対して「ベンチに座っているだけで良いから一緒に出てください」と涙ながらに頼んでいた。そして、清原の引退試合で40号本塁打を放ったあと、ベンチ前で清原と抱擁を交わして「キヨさんの最後の試合に一緒に出て、本塁打を打てたことが嬉しい」とコメントしている。, 中村紀洋とはお互い親友というほど仲がよく、2009年に(二度目の)現役引退を表明してからも電話で連絡し合っているという[35]。, 1997年から2000年まで同僚のフィル・クラークとは同じ年ということもあり仲がよく、ベンチなどで談笑していることが多々あった。, 2001年、少年サンデー超2001年11月号に「タフィ・ローズ物語」が掲載された。, 結果としてこの発言が、シーズン後の戦力外通告の遠因になったと言われている。後にローズは、巨人でチームメイトから常に疎外されていたことなどを暴露した。, 入団テスト期間中「もし(テストに)合格したなら、背番号は近鉄に入団した(1996)年にちなんで, 日本プロ野球において外国人選手の400号は史上初である。1435試合での400号達成は、, 日本プロ野球において外国人選手の450号は史上初(1609試合で450号達成は、王貞治の1559試合についで史上2番目のスピード記録)。これによって通算224人の投手から本塁打を記録し、, “【BCリーグ】富山、元巨人ローズ再獲得へ…15年兼任コーチで戦力、指導、集客力に貢献”, http://www.hochi.co.jp/baseball/etc/20161125-OHT1T50245.html, http://www.hochi.co.jp/baseball/etc/20160130-OHT1T50023.html, 【9月30日】2001年(平13) “バースの悲劇”再び…ローズ、苛立ちの2打数無安打2四球, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=タフィ・ローズ&oldid=80009322, 巨人移籍時、発言によるトラブルの発生を避けるため、「記者と会話する際は基本的に通訳を介して話すように」という契約が交わされていた。このため、インタビュアーの質問を通訳を介さずに直接聞き取り、自らの英語の答えを通訳に日本語に訳してもらうという一風変わった場面も見られた(後に入団した, 1000打点:2007年4月4日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(京セラドーム大阪)、9回裏に小野晋吾から右越2ランを放って達成 ※史上初, 400本塁打:2007年9月2日、対千葉ロッテマリーンズ19回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に, 450本塁打:2009年4月26日、対北海道日本ハムファイターズ5回戦(スカイマークスタジアム)、4回裏に, 300二塁打:2009年8月7日、対千葉ロッテマリーンズ13回戦(京セラドーム大阪)、1回裏に, 3500塁打:2009年9月25日、対千葉ロッテマリーンズ22回戦(千葉マリンスタジアム)、2回表に, 150本塁打:2001年5月13日、千葉ロッテマリーンズ9回戦(大阪ドーム)、7回裏に, 1000試合出場:2003年6月10日、対オリックス・ブルーウェーブ13回戦(大阪ドーム)、3番・左翼手として先発出場 ※史上387人目, 1000三振:2003年9月13日、対千葉ロッテマリーンズ25回戦(大阪ドーム)、1回裏に, 1000打点:2007年4月4日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(京セラドーム大阪)、9回裏に小野晋吾から右越2ランを放って達成 ※史上28人目, 1500本安打:2007年6月30日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(京セラドーム大阪)、7回裏に, 在籍12シーズン連続100三振以上(1996年 - 2005年、2007年 - 2008年). 1997年 8月に パシフィック・リーグ 新記録(当時)となる4試合連続 猛打賞 や、来日初の3割を記録し、初の ベストナイン 、全試合に出場した。 1998年 は前年より調子を落とし、前年と同じ22 本塁打 を打ったものの打率.257だった。 日本野球機構(npb)オフィシャルサイト。プロ野球12球団の試合日程・結果や予告先発、ドラフト会議をはじめ、事業・振興に関する情報を掲載。また、オールスター・ゲームや日本シリーズなど主催試合のチケット情報もご覧いただけます。 Copyright ©  斜め上からこんにちは(芸能人、有名人の過去、今、未来を応援するブログ!) All rights reserved. タフィ・ローズは、日本の野球界で13年間活躍した強打者です。近鉄バファローズを振り出しに、読売巨人軍、オリックス・バファローズと3球団を渡り歩き、中心打者として君臨しました。バットを小刻みにゆする独特のフォームから豪打を連発したタフィ・ローズは、近鉄時代の2001年には、王貞治のシーズン本塁打記録55本に並ぶという偉業を成し遂げています。 1990年代後半から2000年代にかけて、打棒で存在感を見せた外国人選手と言えばタフィ・ローズという野球ファンも多いことでしょう。前が見えるのか心配になるほど深いヘルメットのかぶり方も懐かしいものです。タフィ・ローズの日本での通算成績は、1670試合出場で6274打数1792安打464本塁打1269打点、打率2割8分6厘。主要タイトルは、本塁打王4回、打点王3回、最高出塁率1回です。, MVP受賞は1回で、ベストナインに選ばれること7回。外国人選手では唯一となる400本塁打の成績も記録しています。1986年のドラフト3巡目でヒューストン・アストロズに入団したタフィ・ローズは、俊足の外野手として期待されながら、メジャー定着を果たせずじまい。, その後は、シカゴ・カブス、ボストン・レッドソックスを経て1996年に近鉄入りします。タフィ・ローズは、「いてまえ打線」の中心打者として長打力を見せつけ、2001年にはリーグ優勝に貢献。しかし、毎年ホームランを量産するため、当初は7000万円だった年俸も毎年はね上がり続け、フロントと対立した末、2004年に5億5000万円の年俸で巨人入りしました。, その後も好調だったタフィ・ローズでしたが、チーム内での孤立と故障が響いて戦力外に。一時アメリカに帰国した後、2007年にオリックスに入団して健在ぶりを見せつけています。しかし、2009年シーズン終了後の契約交渉が難航し、打ち切りとなったことから退団。日本プロ野球において、外国人選手として最高のホームラン数を誇りながら、寂しい去り際となってしまいました。, 普段は陽気な性格で、積極的にファンサービスに励んだタフィ・ローズでしたが、キレやすい性格が玉にキズ。プレー中に激高するトラブルメーカーとしての顔も持っていました。巨人時代にも、コーチとトラブルを起こしてブチ切れて問題になったことがあります。, 2005年4月のヤクルト戦のことでした。外野手として打球を追わなかったため、コーチから「緩慢プレー」だと指摘されたタフィ・ローズは激高。コーチにつかみ掛かるなど不穏な空気に。あげくに報道陣へ「負けたのが俺のせいにされた。日本で10年間やってきたけど尊敬の念が感じられない」と日本語でまくしたて、「ジャイアンツ下手くそ!ジャイアンツなんか大嫌いだ。東京に帰る!」と大荒れ。, 傍らでなんとか静めようとする通訳を押し切り、「どんどん紙面に書いて」と手が付けられない状態になりました。当然、高額な罰金を徴収されたタフィ・ローズ。それ以外にも、史上最多の14回退場処分という不名誉な記録も残しています。デッドボールや危険球での退場以外に、ストライク・ボール判定を巡っての暴言というケースもよく見られました。, 近鉄時代の応援歌では、「今進め 男タフィ」という出だしで歌われていたタフィ・ローズ。「豪快なアーチを 勝利を待つスタンドへ」という歌詞に違わず、豪快なホームランを連発しました。巨人へ移籍すると、応援歌は「大海原で暴れろ吠えろ キングタフィ・ローズ」にリニューアル。「キング」とは、本塁打王を獲ったことを指しているのでしょう。, オリックスでは「また進め男タフィ」と歌詞を変更していますが、基本的には近鉄時代の応援歌を受け継いでいます。歴代応援歌で歌われているのは、いずれも彼の持ち味である強打ですが、タフィ・ローズはもともと長距離打者タイプではありませんでした。, むしろ、メジャーで俊足の外野手として注目された経歴を持つように、来日してから3年連続2桁盗塁を記録していることはあまり知られていないかもしれません。そんなタフィ・ローズがパワーヒッターとして覚醒したのは、1998年オフのウエートトレーニングがきっかけでした。, 打率2割5分7厘と低迷するなど来日以来最低の成績に終わたそのシーズン、奮起してウエートトレーニングに取り組んだタフィ・ローズは、翌シーズンに長打力が飛躍的にアップ!40本塁打101打点で初の打撃タイトル2冠を獲得し、ホームランバッターの仲間入りを果たしました。, 日本球界で抜群の実績を残したタフィ・ローズですが、プレーした球団全てをトラブルの末に去っています。近鉄時代の2003年オフに、複数年契約を希望したタフィ・ローズは、「外国人選手には複数年を認めない」としたフロントと対立。「どんなに頑張って実績を残しても『ガイジン』としか扱ってくれない」という発言が飛び出すなど事態は深刻化していき、結局は近鉄を去ることになりました。, そして、高額な年俸を出せる巨人に移籍。一時は野球人生を巨人で終える意向まで示していましたが、試合中の守備を巡ってコーチと口論になり大荒れし、チーム内で孤立する事態となりました。加えて、右肩の故障で成績を落としたタフィ・ローズは、巨人からあっさりと戦力外として見限られてしまいます。, 巨人退団後にアメリカに帰国し、一時は現役引退を表明していましたが、2007年の春季キャンプからオリックスに入団。ブランクを全く感じさせない中軸打者にふさわしい大活躍を見せました。そのオリックスでも、2009年のオフの契約交渉が難航し、代理人から音沙汰がなかったことから交渉打ち切りとしてオリックスを退団することに。, その後は、どの球団に入団することもなく、2度目の現役引退となったタフィ・ローズ。しかし、2015年5月に、近鉄時代のチームメイトだった吉岡雄二が監督を務める日本の独立リーグ富山GRNサンダーバーズからのオファーで電撃的に現役復帰を果たしました。, 野手コーチ兼任で入団したタフィ・ローズは、プレー面での活躍に加えて、その人気で営業面にも大きく貢献します。それが評価され、2016年もチーム残留予定だったものの、オフ中にふくらはぎを痛めたことで来日できずに終わりました。2017年も契約を結ぶことはなく、またしても残念な結末を迎えています。, タフィ・ローズは現役時代に、「退場王」という裏タイトルを持っていました。もちろん、本当にそんなタイトルがあるわけではありませんが、宣告された14回退場は史上最多記録です。普段は陽気でフレンドリーな性格だったものの、グラウンド内では一変して激情家の顔を見せたタフィ・ローズ。14回の退場宣告は、その激情が響いた結果だったことは言うまでもありません。, 中には、デッドボールや危険投球への怒りも含まれていますが、ストライク・ボールの判定で審判に暴言を吐くケースも多く見られたことから自業自得と言えます。実は、退場を宣告する側の審判員にとって、選手への退場宣告は「一番勇気が要る」そうです。監督や選手が侮辱行為に及ぼうものなら毅然として対処しなければならないという覚悟をもって臨むことが求められます。, 近鉄に在籍していた当時のタフィ・ローズがオープン戦で見逃し三振に倒れ、審判に暴言を吐いて退場処分になりましたが、こういった行為も審判にとっては絶対に看過できないものです。余談ですが、タフィ・ローズが吐いた暴言は、審判学校で、退場確実の典型的な捨てセリフとして指導されているとか。, 審判はそこまで強い覚悟でジャッジに臨んでいるわけですから、うかつに暴言を吐くのは軽率な行為。そういったことを、タフィ・ローズにはもう少し学んで欲しかった気がします。ともあれ、彼が再び現役のユニフォームに袖を通すことはあるのでしょうか?これまで何度も再起を果たしてきただけに、もう一度日本でプレーする姿を楽しみに待ちたいものです。, 《斜め上からこんにちは》は芸能人や有名人の方々への応援メッセージをお伝えしているブログです。, 現在当サイトではpush通知を導入しております。 タフィ・ローズは、日本の野球界で13年間活躍した強打者です。近鉄バファローズを振り出しに、読売巨人軍、オリックス・バファローズと3球団を渡り歩き、中心打者として君臨しました。バットを小刻みにゆする独特のフォームから豪打を連発したタフィ・ローズは、近鉄時代の2001年には、王貞治の …